宋美齢

提供: ジェット・リーWiki
移動: 案内検索
宋美齢(そうびれい) template-character.png
中国語名 宋美齢
英語名 Madame Chiang Kai-shek
職業 中国国民党中央委員会委員 
特技/得意技 通訳
日本語吹き替え(声優)

2009年に公開された【建国大業】の登場人物。演じているのは、ヴィヴィアン・ウー。

目次

実在の人物

宋 美齢(そう びれい 1897年3月5日~1901年10月23日 諸説あり)。
中華民国の指導者蒋介石の妻、輔仁大学理事長、中国国民党中央委員会委員、中国国民党航空委員会秘書長。欧米では蒋介石夫人Madame Chiang Kai-shekと呼ばれた。

上流階級出身

1897年に清朝の上海で誕生。孫文の支援者である父・宋嘉樹(中国語版)と母・倪桂珍の間に誕生する。
孔祥熙の妻となる姉 宋靄齢 孫文 の妻となる宋慶齢の2人の姉と共に「宋氏(家)三姉妹」として、中華民国内をはじめ世界的にも永く知られることとなる。
中華民国の政治家・実業家・宋子文の兄を持つ。

アメリカ留学

9歳のときに姉・慶齢と共にアメリカに留学する。中学校、高等学校時代を留学先のジョージア州メイコン郊外の高級住宅街にて過ごす。
この留学時の流暢な英語は、後の政治活動に大きな影響を与えることとなる。
ジョージア州の高校を卒業したのち、メイコンの女子大学・ウェスレイアン大学に一年間在学・マサチューセッツ州名門女子大学であるウェルズリー大学に入学。
1917年に同校を首席で卒業した。中華民国に帰国した後は同国内においてキリスト教の布教活動を行う。

蒋介石との結婚

その後1920年 中国国民党党首・中華民国の指導者蒋介石と上海市内の孫文の旧居で出会い1927年12月1日に結婚した。
孫文を継ぎ、中華民国の若き指導者となった蒋介石と、流暢な英語で欧米でもよく知られた宋美齢の結婚は、中華民国内のみならずアメリカや日本イギリスなど世界各国で大きく報じられた。
参列者は日本やドイツ、アメリカやベルギーをはじめとする各国の総領事や中華民国の政財界の有力者など1300人を超えた。
蒋介石は実際に結婚後の1929年、上海のメソジスト教会で洗礼を受け、キリスト教徒となった。
宋美齢は1930年から1932間蒋介石の支援をし、中華民国立法院の立法委員として多大な影響力を持つ。
1936年12月に張学良軍に捕らえられ監禁されるという事件が起き、「西安事件」とよぶこの蒋介石監禁の件につき自ら西安へ飛び立ち、監禁されていた蒋介石の解放と交渉をする。
張学良軍や中国共産党軍との「統一戦線」の構築など国内戦線に向けて会談などの交渉力を持つ。蒋介石の生涯を通じ政治的判断に影響力を持った。

日中戦争

1937年に日本との間に勃発した日中戦争が勃発し日中戦争では、当時中国や満州国で日本との利益対立を深めていたアメリカからの軍事援助の獲得を目指し、「国民党航空委員会秘書長」の肩書にて蒋介石の「通訳」として蒋介石を助ける。
駐中華民国大使館附陸軍武官 ジョセフ・スティルウェルやアメリカ陸軍航空隊のクレア・リー・シェンノート大佐との交渉に同席しアメリカからの有形無形の軍事援助を引き出だす。
日中戦争中から第二次世界大戦の初頭にかけて日本軍と対峙した「アメリカ合衆国義勇軍(フライング・タイガース)」の設立や日本軍に比べて比べ物にならないほど遅れていた中華民国空軍の近代化に大きく貢献した。

蒋介石のスポークスマン

宋美齢は親中派のフランクリン・ルーズベルト大統領の妻エレノアと親密な関係を構築している。
日中戦争から第二次世界大戦に至るアメリカの対日政策に大きな影響を与える。
第二次世界大戦中の1942年11月から1943年5月、ルーズベルト大統領直々の招聘でアメリカを訪問。アメリカ政府の全面的なバックアップを受ける。
アメリカ全土を巡回し自ら英語で演説。抗日戦への援助を訴え続けた。
1943年2月18日ワシントンD.C.アメリカ連邦議会にて中華民国空軍のバッジを着けチャイナドレス姿にて抗日戦へのさらなる協力を求める演説を行う。並み入る連邦議員のみならず全米から称賛を浴びその支持を増やした。
抗日戦へのアメリカ市民からの義捐金を募るため、カリフォルニア州ハリウッドで演説した際、キャサリン・ヘプバーン、イングリッド・バーグマンなどの多数のハリウッドスターから大きな称賛と支援を受ける。
アメリカをはじめとする連合国における抗日戦のシンボル的存在として蒋介石と共に『タイム』誌の表紙を飾る。
第二次世界大戦中を通じて中華民国のファーストレディとして、夫で英語を話せない蒋介石のスポークスマンとして中華民国のロビイスト的役割を果たす。
アメリカをはじめとする連合国における中華民国、日本に対する世論に大きく影響を与えた。

国共内戦

その後ポツダム宣言により抗日線は幕を下ろしたが、毛沢東率いる共産党と国民党との国内の内乱が勃発する。
国境を接するソ連からの潤沢な軍事支援を受けた共産党軍に押されて東北地区を失った後、国民党軍は敗走し、その後沿岸地域の拠点も失う。
1949年に蒋介石や宋美齢が多くの国民党幹部と共に台湾へ撤退し台北を臨時首都とした。

蒋介石死後

1975年4月に蒋介石が死去。蒋介石が前妻毛福梅との間にもうけた長男の蒋経国は国民党主席兼中央委員会常務委員会主席に就任。党内の支持基盤を確立次期総統就任への準備が進められた。
政治的基盤の弱体化を予想した宋美齢は、同年に中華民国を去りアメリカに住居を移す。
1978年蒋経国、第6期総統に指名され蒋介石の後を継いだ。
宋美齢はその後も政治的野心を持ち続け、国民党内の保守派と密接な関係を継続した。
1981年5月姉で中華人民共和国名誉国家主席となっていた宋慶齢が危篤となった際、同国より宋慶齢の見舞いのために訪問を打診されたが、同国との敵対関係が続いていたこともありこれを拒絶している。
1986年に蒋介石生誕100周年記念行事が台北で開催。アメリカから帰国する。
その後再び台北に居を移し政治的影響力の回復を図ることをするが蒋経国は動員戡乱時期臨時条款(国安法)施行による自由選挙の実施戒厳令の停止など中華民国の民主化を徐々に推し進めていった。
蒋経国が1988年1月に死去。副総統で本省人である李登輝が事実上の後継者となる国民党主席代行に就任。
同年7月に李登輝が総統に就任。宋美齢の反民主主義的な発言を記録化し証拠づくりを進め宋美齢の影響力を確実に弱めていった。

晩年

宋美齢は1991年9月にアメリカへ再び渡航することとなった。その後高齢による健康問題もあり政治的な活動は減少した。
1995年7月には、第二次世界大戦終結50周年の式典のためにアメリカ政府の招待を受けてワシントンD.C.を訪れ演説を行ったほか、同年には生涯で最後の中華民国訪問を行った。
これ以降は高齢のため歩行すら困難になったため、政治の表舞台に登場することはほとんどなくなった。
2000年3月の中華民国総統選挙にて国民党候補の連戦に対する支持を文書で表明。
同国の政治への関与はさらに目立たなくなったが続けていた。国民党の連戦は民主進歩党の陳水扁に敗北。中華民国史上初めて与党の座を明け渡すこととなった。
同年長年暮らしたロングアイランドの屋敷を引き払う。孔祥煕の遺族が建物ごと購入したニューヨーク州マンハッタン、アッパー・イースト・サイドにある1830年に建造された高級アパート「10グレイシー・スクエア・アパートメント (10 Gracie Square Apartment) 」に住まいを移した。
中華民国政府があてがった警護官や看護婦、料理人らに囲まれて暮らした。9階と10階の全1万スクエアフィート(1000平米以上)のうち部屋数18、寝室7、浴室8、使用人小部屋4、イーストリバーが眺望できる11フィートの高さの天井の居間20人着席可能な食卓、図書室、レストラン並の厨房等があり、廊下は使用人とすれ違う事がないよう別々になっていた。

死去

その後2003年10月23日に、マンハッタンの自宅で老衰により105歳で死亡した。その死去は世界各国で大きく報道。
中華人民共和国、中国人民政治協商会議全国委員会の賈慶林主席にて弔電が送られた。また多くの市民が中正紀念堂を訪れ、宋の冥福を祈った。

エピソード

蒋介石の解放を張学良に訴えるために西安に向かった際、飛行機が着陸する寸前にハンドバッグから拳銃を取り出し「もし張学良が私のことを捕まえようとしたら、この拳銃で私を撃ってね」と言い、蒋介石の解放が実現せずに自分自身も監禁された場合蒋介石と心中する覚悟であったといわれている。
死亡した2003年10月の際は「享年106」と発表。墓碑には「1898年2月12生」と記される。(「蒋介石夫人 静かなる晩年」『産経新聞』2009年1月6日、14版、10面より)

著書邦訳

わが愛する中華民国 蒋宋美齢 長沼弘毅訳 時事通信社 1970.

ギャラリー

エピソード

脚注

宋美齢が登場する映画

『宋家の三姉妹』(原題:宋家皇朝、1997年、香港・日本、演:ヴィヴィアン・ウー)
『建国大業』(2009年、中国、演:ヴィヴィアン・ウー)

関連ページ