劉少奇

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中国語名 劉 少奇
英語名 Liú Shàoqí
職業 中華人民共和国 第2代国家主席
特技/得意技 なし
日本語吹き替え(声優) なし

2009年に公開された【建国大業】の登場人物。演じているのは、劉沙。

目次

実在の人物

劉 少奇(りゅう しょうき) 1898年11月24日 - 1969年11月12日。中華人民共和国の政治家。凱豊や胡服などといった別名も使用。第2代中華人民共和国主席などを務る。中国共産党での序列は毛沢東に次ぐ第2位。。文化大革命の中で失脚。非業の死を遂げる。

1898年に湖南省の寧郷県で生まれる(毛沢東の出身地である韶山とは20km程度の距離)。
1913年に長沙に行き鉅省中学に入学。
1920年に湖南省の中国社会主義青年団(後の中国共産主義青年団)に入団。
1921年にソビエト連邦に入国。モスクワの東方勤労者共産大学で学ぶ。中国共産党に入党。
1922年コミンテルンが主催した極東諸民族大会に参加。帰国後、江西省の安源炭鉱のストライキ。李立三らとともに指揮し闘争を成功させた。
主に労働運動で活躍し、1927年に党の中央委員に選出される。

中華人民共和国建国まで

第一次国共合作の崩壊後は中国国民党支配地域(白区)を中心とした様々な地下活動に従事。
1934年10月より長征に参加。遵義会議では毛沢東を支持する。
1935年の十二・九運動の発生。党中央より華北に派遣される。
1936年には党の北方局書記となる。華北地区での抗日運動を指導する。
1941年の晥南事変後、新四軍の政治委員となり、軍の再建と華中地区の根拠地拡大に務めた。
1943年、延安に戻り党中央書記処(現在の中央政治局常務委員会)の書記に就任。整風運動にも従事する。
1945年4月~6月にかけて開催された第7回全国代表大会(党大会)にて「党規約の改正についての報告」を発表。この時、「毛沢東思想」と言葉を初めて公式の文書に使用している。
第7期党中央委員会第1回全体会議(第7期1中全会)にて中央政治局委員・中央書記処書記に選出された。第二次世界大戦および日中戦争の日本の敗戦後に行われた重慶の地にて蒋介石との会議に毛沢東が赴いた際、延安で党主席の代理を務めている。
建国直前の1949年7月、党中央代表団を率いて秘密裏にソ連を訪れるスターリンと会談し、新中国の国づくりの基本方針の説明とその理解を求める。

国家主席就任

中国国民党との国共内戦終結。
1949年に中華人民共和国が建国、中央人民政府副主席、人民革命軍事委員会副主席、全国人民代表大会常務委員会委員長を歴任する。
1956年9月、第8回党大会で政治報告を担当、続く第8期1中全会で中央政治局常務委員に選出され、中央委員会副主席の筆頭に位置づけとなる。
1958年より毛沢東の指示で行われた大躍進政策が失敗に終わる。
959年に毛沢東に代わって国家主席に就任する。毛沢東は中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席にはとどまり、国政の最高責任者についたことで形式的には毛を越える地位となった。
1962年の七千人大会(党中央の拡大工作会議)において、劉はこのあと、党総書記の鄧小平とともに市場主義を取り入れた経済調整政策を実施し、大躍進政策で疲弊した経済の回復に努めた。 この時期毛沢東と劉少奇との間に政策にて相互のすれ違いと相違があり、劉少奇は「今回の大災害は天災が三分、人災が七分であった」と党中央の責任を自ら認めた。 自己批判を余儀なくされ、これ以降政務の一線を退いた。

外交政治に関して

国際的にはソビエト連邦との間で路線の対立が決定的となり、インドネシアなど周辺の非同盟諸国との結束を固めるため、劉は何度かこれらの国々を訪問している。

文化大革命により失脚

劉少奇は鄧小平とともに「資本主義の道を歩む実権派」の中心とされた。
1966年8月の第8期11中全会において、毛は「司令部を砲撃せよ」と題する、実権派の党幹部打倒を指示する論文を配布した。 劉は政治局常務委員に残留したものの、副主席の任は解かれ、同年10月の中央工作会議で名指しの批判を受ける。
これに対して劉は自己批判をおこなった。毛は「よく書けている」と評価したが、その評価を隠されたままリークされ、それがさらなる批判の材料にされた。 1967年4月1日、中央文化革命小組の戚本禹は、共産党の理論誌『紅旗』1966年第5期号に発表した評論「愛国主義か売国主義か」歴史映画『清宮秘史』を評す」人民日報』に掲載された。これをきっかけに劉に対する攻撃が激化。
同年7月18日には、中南海の自宅が造反派に襲撃される。 7月18日の批判大会の後、夫人とは別の部屋に隔離。9月には夫人が逮捕され子供も自宅から追い出れるなど劉一人が自宅に取り残された。
永久に中国共産党から除名し、党内外の一切の職務を解任する処分が決議され、劉は失脚した。

最期

自宅監禁状態であった劉は病の床に就く。1968年夏に高熱を発した後はベッドに横たわる状態となった。
1969年10月17日、河南省開封市に移送。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま、暖房もないコンクリートむき出しの倉庫部屋に幽閉された。限られた治療の中で病状は悪化。11月12日に没した。 白布で全身を包まれた遺体は、開封の火葬場にて「劇症伝染病患者」という扱いで、死の約2日後の深夜に火葬に付された。
死亡者氏名「劉衛黄」(この名前は劉少奇の幼名だったという)と記載。 劉の死は当初は高級幹部以外の国民や国外にはほぼ秘匿。外部からは生死不明の状態が続いた。 「生存説」が海外のメディアで報じられたこともあった。

名誉回復

毛沢東が死去し、鄧小平が実権を掌握していた。1980年2月、第11期5中全会において除名処分が取り消され、名誉回復を果たした。
遺骨は遺言により劉と同じく文化大革命で迫害を受けた夫人の王光美らによって、中国海軍の艦艇から海に散骨された。

エピソード

党員の規律や指導についての著書『共産党員の修養を論ず』を執筆し、同書は劉の主著として広く党内で読まれた。(戦後の日本の左翼運動でもテキストに使われた)

家族

劉少奇は生涯に(形式的なものを含め)6度の結婚をした。やはり生涯に4度の結婚をした毛沢東とは、最初の妻が親に決められた形式的なものであったこと。最後の妻である王光美とは円満な家庭を築いた。
文革期に以前の妻との間の娘が、江青らの一派にそそのかされて父親を批判する文書を発表し文革中、自宅で紅衛兵に囲まれて暴行を加えられたとき、二人は強く手を握って耐えていた。
王光美との間の男子である劉源は現在、中国共産党中央委員、中国人民解放軍上将、中国人民解放軍総後勤部政治委員を務めている。
(実質的には最初)の妻である何葆貞(国民党に逮捕され獄死)との間の長男である劉允斌は、ソ連留学中に現地の女性と結婚し、男児(アレクセイ)をもうけた。 劉允斌は後に帰国したが妻子はソ連に残り、アレクセイはソ連軍の軍人となる。
アレクセイの娘(劉少奇の曾孫)であるマルガリータ・フェドワは「劉麗達」という中国名を持ち、2013年現在は中ロ両国の交流に携わっている。

特徴

エピソード

ギャラリー


脚注


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